お客様と歓談するオーナーの坂爪潤マスター

 カフェは文化の花開く場所。例えば、花の都パリのモンマルトルにはかの有名な「Le Dôme」というカフェがある。パリが芸術の都として栄えたのは上質なカフェがあったからこそと思う。ぼくの中では、上質なカフェは「まちのえき」なのだ。ひらがなにするのは、町・街・待ちと駅・益・役などの意味を含んでいるからなのだが。

 まちのえきでは、毎日楽しいドラマや新しい出会いが生まれてくる。珈琲は主役ではなくBGM。珈琲の醸すアロマや味わいが、人の思考を鎮静させ、脳の働きを明晰にさせる静かな脇役として存在するのだ。そして語らいが盛り上がるのは、珈琲がゆったりとした心の開放感をもたらすからなのだ。今日も粋な店主に出会うために、心のままに放浪に出ようと思う。

 美味しい珈琲に不可欠なのは、やはり名水だ。

 硬水と軟水で珈琲の味わいは大きく左右されるし、豆の性質、焙煎や湯温、グラインドの大小や抽出方法、抽出時間も重要なのではあるが、美味しさの広がりをもたらすのは、やはり水なのである。

 カフェ・エドモンズでは、地元金谷の井戸水で珈琲を淹れている。ぼくは、その土地の水に合わせて珈琲豆の力を引き出せる人が、プロのカフェマスターなのではと思う。豆や水を育む風土や文化、栽培する人々の情熱を伝えるのもカフェの使命だからだ。

 そして、きれいな水の湧く場所には、実は美人が多いという経験から、ぼくはこの金谷でカフェを営んでいるわけだが。

 そんな気になる水を千葉県で調べてみると、なんと全国名水百選で選ばれた地区がある。長生郡長南町の「熊野(ゆや)の清水」である。熊野の清水は、弘法大師が錫杖により湧水を招いたという伝説があり、史実として伝えられるものに「室町時代から約100年の間、この湧水を利用して鶴岡八幡宮の湯治場として栄え、そのことからこの地を湯谷ともいった。」とある。長南町ののどかな山間の田園風景を目指して、ぼくは居ても経ってもいられず、バリスタ千春ちゃんに合掌館を任せ、美人と美味しい水を求めて、夢中で長南町に向かっていた。

名水仕立ての蕎麦も絶品

 県道147号長柄大多喜線沿いに面する熊野神社の小道脇に、全国名水百選の「熊野の清水」がひっそりと、その湧き水をこんこんと溢れ出させていた。思わず両手ですくい、その水を口に含む。房総の悠久が育む甘くまろやかな口当たりと、森の香りのハーモニーが口の中に広がった。 妖精とキスしたようなしびれる感触。確かに名水百選に選ばれるだけにうまい。プロの珈琲屋として、あぁ、この水で珈琲を淹れてみたいという思いが過った瞬間、脇にある小屋の看板が目に入った。

 店内に入ると大きなテーブルがひとつ。 そして、森の仙人のようなヒゲのマスターが笑顔で迎えてくれた。店内には、大きなガラスフラスコから琥珀の水滴がポタリと小さな音を奏でているではないか。なな、なんと水出し珈琲(通称ウォーターブリュワー珈琲)が抽出されているのだ。ぼくは思わず「もしかしたらこの場所から湧き出る水を使っているのですか? と声を裏返して聞いてしまった。「もちろんですよ」と笑顔で答える仙人のような坂爪マスター。

 水出し珈琲は、もともとインドネシアの苦味の強い珈琲を、オランダ人が水で抽出したのが始まりと言われている。水で抽出する事により酸化も弱まり、渋みも出ない。まさに理想的なマイルド珈琲となるわけである。

 洋食を極めた料理人のマスターが「包丁さえあればどこでも生きていける」とこの名水に魅せられて、カフェを開店させた。以来30年、ここに店を構えて、自然食材にこだわる暮らしをしているのだそうだ。

 熊野の清水で淹れた水出し珈琲は、ワインにたとえるなら、初々しい透き通ったボージョレのような色香だ。口の中で広がる珈琲フレーバーはスッキリとさわやかで、のどにしみわたる。夏の日の峻烈な恋を彷彿とさせる味わいなのだ。遠い青春時代、キラキラと光る水面を駆けるふたりだけのビーチを思い出させてくれる。

 あの夏の日のあの人は今、何をされているのだろうと、がんこ茶屋の天井を見つめ切なくなるぼく。

 やはり「名水の影に美人あり」なのである。ちなみに、マスターも、この名水にほれて、バツイチになったそう。名水も美人も人生を惑わすものなのだ。

 がんこ茶屋の水出し珈琲、人生の岐路に迷う時、味わっていただきたい逸品だ。

EDOMONS DATA

カテゴリー:思い出をよみがえらせる仙人カフェ
店  名:がんこ茶屋
住  所:長生郡長南町佐坪2388付近
電  話:090-5992-9777(田んぼまで)
営業時間:午前11時~ マスターが帰りたくなるまで
定休日:火曜日

この記事は、千葉県富津市金谷で営む古民家カフェ「cafe edmonds」のマスターの青山えどもんずが、房総のさまざまなカフェをめぐる放浪記です。
「<第8話>カフェ・がんこ茶屋 仙人が淹れる弘法大師の名水カフェ」は、2016年7月22日の千葉日報に掲載されました。

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千葉県富津市金谷で営む古民家カフェ「cafe edmonds」のマスターの青山えどもんずが、房総のさまざまなカフェをめぐる放浪記です。

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